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◆ 多様性に代わる概念

  • 2007/06/28(木) 14:48:30

◆ 多様性に代わる概念

では、多様性なるものを、善い悪いの判別をせずに容認してきた、そして今現在も容認し続けているこの社会に対して、我々はどのように変革していけばいいのでしょうか?

正直なところ、良い多様性と悪い多様性が、今世の中に混沌とした形で存在していて、容易に選り分けすることは、至難の業なわけで、この多様性という概念に沿っての改善あるいは変革というのは難しいと考えます。そこで、登場してくるのが、「道理」という概念です。ここで用いる道理とは、真理のことですが、私なりに道理を定義しておきたいと思います。

「真実で永遠不変の事実あるいは法則」

ただ、一言で、このように定義されても、「なるほど道理とはこういうものなのか、なら、その道理に沿って生活していこう」と、納得感を持って捉えるというのは非常に難しいかと思いますので、もう少し詳しく説明したいと思います。

道理の中には、因果律というものがあり、これは「原因と結果の法則」と言い換えることができます。原因と結果の法則とは、文字通り、「原因があれば必ず結果が生じる」という法則です。ただ、原因だけで結果が生じるのか、と言えば、縁という条件が加わることが必要であり、「原因と縁と結果の法則」、というのが本当の表現になり、因縁果報はそれを表現した言葉です。

「原因があって、その原因がある縁と結びつき、結果を生じせしめる」、これを本書では、因果律、と呼び、以下、この表現を使っていきたいと思います。

因果律には、「自業自得」、という法則がありますが、これは、言い換えれば、「自因自果」ということになります。自因自果とは、自分で行った行為は必ず自分に結果として返ってくる、という意味です。もう少し、分かりやすく表現すると、自分に降り懸かった災難(結果)は、必ず自分に原因がある、自分の責任である、ということです。

ところが、人というものは、自分に都合の良い見方をしてしまうので、自分に降り懸かった災難を、他人や周囲に原因がある、他人のせい、と考えがちなのです。これは、自因自果と反する言葉として、他因自果と表現できます。他因自果は、文字通り、他人のせいで、自分に悪い結果が生じた、ということであり、これは、因果律に反する考えと言えます。なぜかというと、因果律においては、自因自果は正しく、他因自果は間違いだからです。また、他因自果の考えを持つことは、人のせいにするという考えであり、この考えを持つということは、必然的に、恨みを持つということになります。

これから、いくつか事例を見ていく上で、どうしても「自利利他」という概念に触れておかないといけないので、簡単に述べたいと思います。
自利利他とは、人を幸せにしようとする人は、自分も幸せになれるという考えです。自利は、自分が幸せになりたい、利他は人を幸せにしたい、ということです。これから紹介する悪いと思われる行為(生き方)は、自利の気持ちで行われるものであって、利他の気持ちは欠けている、ということを念頭に入れて見て頂きたいと思います。

・人に迷惑をかける行為
・自分さえよければいいという生き方
・物を盗む行為
・必要以上にお金稼ぎをすること
・人を殺めてしまうこと
・人をいじめること
・人との約束を破ること
・人を裏切ること

人に迷惑をかける行為は、少なくとも相手から恨みを買うことになり、他因自果を誘発する行為と言えます。

自分さえよければいいという生き方は、我欲、自己中心的、利己的な生き方であり、周囲との摩擦は避けられないものとなり、結果として周囲に迷惑をかけることになります。これも恨みを買うことになり、他因自果を誘発する行為と言えます。

物を盗む行為は、盗まれた所有者から恨みを買うことになり、これも他因自果を誘発する行為と言えます。

必要以上にお金稼ぎをすることは、限られたパイの中で、自分だけが必要以上に富を得ることであり、結果としてパイの配分が少ない者が現れてくることから、その者から恨みや嫉妬心を買うことになるので、他因自果を誘発する行為と言えます。

人を殺めてしまうことは、何よりもかけがえのない相手の命を奪うことであり、無念にも殺された側にとっては恨んでも恨みきれない思いでしょう。また、天涯孤独ではない者であったならば、その家族や親戚から恨みを買うことになるので、他因自果を誘発する行為と言えます。

人をいじめることは、相手をいじめ苦しめることであり、いじめられた者から確実に恨みを買うことになるので、他因自果を誘発する行為と言えます。

人との約束を破ることは、約束を破られた者から怒りや恨みを買うことになるので、他因自果を誘発する行為と言えます。

人を裏切ることは、裏切られた者から怒りや恨みを買うことになるので、他因自果を誘発する行為と言えます。

これらの事例から言えることは、悪いと思われる行為は、いずれも他因自果を誘発する行為であるということです。相手に、恨みを抱かせ、人のせいだと思わせるものであり、これは、因果律に反するものと言えます。因果律に反するということは、道理の中に因果律があることから、「道理に反している」、ということができます。つまり、人が行う行為の中で、悪い行為というものは、道理に反した行為であり、人はその行為を回避するよう努力する必要があるということです。
以上、悪い行為を例に道理の説明をしてきました。道理に沿った行為なのか、道理に反した行為なのか、これを峻別するには、道理の中にある因果律を理解し、これを基に判断すればよいことが分かります。

昨今、多様性社会により善悪が不明瞭になっていますが、道理に沿った行為は善、道理に反した行為は悪、という選り分けは、多様性を排他した上での、明確な判断基準として、今後の社会に有効であると考えます。ここで、一つ注意しなかればならないのは、道理というものは、学校の授業で行われていた道徳(倫理)とは異なるものであるいう点です。道徳とは、時代や国によって変化するものであって、一貫性はなく、固定的なものではありません。それに対して、道理というものは、時代や国に依らず普遍性を持ち、どこでも通用する代物です。この違いをはっきり認識した上で、道理と道徳を明確に区別し、混同した形で扱わないように注意して頂きたいと思います。

今、多様性社会のもと、物事の考え方に一貫性や筋を通す、という風潮が崩壊しつつあると思います。「あ~いう意見もある、こういう意見もある、こういった考えもある」、といった形で、多様性という思想を背景に、様々な意見・考えを容認することが美徳である、人間として優れている、人格者である、といった飛んだ錯覚に陥っている大人達が今世間で蔓延しています。これは多様性というマインドコントロールに支配され隷属しているだけであり、彼らに主義主張があるわけではありません。これがもし、物事に一貫性や筋を通した上で、「他にも注意すべき考えがある(他にも視野を広げるべきだ)」、という主張であれば、全体的視野に立っての洞察になることから、肯定されうる行為にはなります。

しかしながら現状は、一貫性や筋は通さず、多様性という風潮に左右されるだけ左右され、善悪の判断に至っては、「心許ない」、というのが実態ではないでしょうか。

善悪をしっかり判断できる状況で、多様性を精査した上で容認するのならば、有用だとも言えますが、どうもこの多様性という思想は、諸刃の剣であろうと考えられます。つまり、人によっては有用に使えるが、人によっては悪用もできる、ということであり、このリスク性から判断すると、この多様性という概念(考え)は使用しない方が、我々人類にとって好ましいと考えます。

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