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お知らせ

  • 2007/06/28(木) 14:20:43

※昨年のいじめ自殺問題から、今いじめが社会的な問題になっています。
このいじめ問題に対して、様々な方が意見や提言を述べていますが、いじめの根本原因を示す方はおりません。
このブログでは、いじめのメカニズムを社会的背景をベースに忌憚なく暴いていきます。
それと共に、どのような方法でいじめを減らすべきか、も併せて提言していきます。
まずは、いじめのメカニズムの全貌を知ること、ここからいじめ問題解決が始まる、と考えております。


【いじめの構図】

いじめのメカニズム



001



002



003



004

↑↑↑
クリックすると拡大画像が見られます。


【Index】

(序論)
◆ 今、いじめが問題になっている

(本論)
①いじめが起きている
◆いじめの原因は何か?
◆ いじめを悪と認識するためには
◆ 反省し謝罪すること(広義の反省)

②いじめの程度が、近年悪くなっている
◆ いじめ悪化の原因とは?
◆ 多様性を背景に反省する機会が激減した
◆ 多様性に代わる概念
◆ 道理に沿った社会がいじめを減らす

③皆、イライラしている
◆ 人は妄想を描くもの
◆ イライラの原因は?
◆ 真実とは?
◆ 真実の核心、キレイごとを好む人間
◆ イライラしないためには

④皆、外に対して攻撃的
◆ 攻撃的な態度とは?
◆ 世間の風潮 ~ つっこみという行為の危うさ ~
◆ いじる、について ~ おもしろ至上主義への妄信 ~
◆ 被害者の視点 ~ 空気を読め ~
◆ なぜ、攻撃的なのか?
◆ イライラ人間の特徴
◆ 標的を探す飢えた人々
◆ きれる、について
◆ 親子関係 ~ 言葉による攻撃 ~
◆ 親子関係 ~ 暴力による攻撃 ~
◆ 攻撃的な態度から柔和な態度へ


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◆ 今、いじめが問題になっている

  • 2007/06/28(木) 14:32:45

今、いじめが問題として待ったなし、の状況にあり、いわば崖っぷち、末期的とも言える状態にあります。いじめというものは、今になって起きたものではなく、昔から存在していたものです。ただ、昨今の自殺や学校側の不適切な対応、文部科学省への手紙送付等から推察するに、いじめという問題が現場において、そして当事者の子供達にとって、これ以上は耐えられない、あるいは耐え難い状況にまで到達している、と判断できるのではないでしょうか。子供達は、ある意味、ラストメッセージをSOSという形で送っているわけで、我々大人世代は、このSOSに対して真摯に向き合い、早急に、しかし、適切に対応しなければなりません。

私が、今いじめに対して感じることは、「いじめの程度が悪くなった」という事です。私が中学校時代に受けたいじめというものは、暴力的な面もあったりして、それを受けている最中は当然耐え難いものではあったものの、連日その行為が行われ、自殺に追い込むまでの執拗な攻撃にはなっていなかった、と感じます。これに反して今のいじめというものは、自殺や自殺予告が頻発する現況を鑑み考察してみると、いじめる側が“いじめの程度(度合い)において限度を把握しないで行っていること”、“いじめられる側の心を把握する気持ちが全くないこと”、が要因として考えられるわけで、これはいじめる側の冷酷性・残虐性が悪化していると評価できます。

また、今のいじめで挙げられている特質の一つとして、いじめる側といじめられる側が時としてコロコロ入れ替わる、というのがあります。これは、いじめられる要因があろうが、なかろうが、いじめられる可能性があるというゲームに似た状況と言えます。従って、いじめの現場に出くわした場合、その子供達が注意したり、指摘したりすることは、「明日は我が身」、ということもあり、どうしても見て見ぬ振りをしてしまう、そうせざるを得ない状況にあり、こうなってはいつまでたっても、いじめは放置され続け、増加の一途を辿るという悪循環が続いてしまうのです。

いじめについて、現状を簡単に述べましたが、いじめの問題は子供達だけの問題でしょうか?それとも、教育関係者に問題があるのでしょうか?また、それとも家庭や地域社会に問題があるのでしょうか?

私が考えるに、問題の核心は、子供達や教育者、家庭、地域社会、という各論的(個別的)なところではなく、もっと全体的な視点に立って大局的にこの問題に対峙し取り組まないと、この問題は到底解決することができないと考えます。子供達をどうにかしよう、法律や制度を変更しよう、教員免許の更新性を導入しよう、などなどの、分断的な考えで、いじめという包括的で巨大な問題を解決しようなどと考えるのは浅はかな知恵であり、見当違いの結果しかもたらさないでしょう。

ここで、大局的な見地から分析した結論を先に述べておきます。いじめ問題の核心の背景となるものは、大人世代の腐敗、もっと言えば、日本人全体の腐敗、であり、これにより昨今いじめの程度が悪くなったと言え、いまなお問題として世間を騒がせている理由は、この背景を発見し、指摘できないからだと考えられます。木を見て森を見ず、とは、このことであり、近視眼的な洞察に依存していては、本当の解決はできないということです

問題の背景として、大人世代が腐敗し、質が落ちている、と結論づけました。大人世代は、己が腐敗したなどとは当然理解していないわけですが、この腐敗した、質の落ちた大人世代に育てられて、子供達はどうなるのか、と問われるならば、当然「朱に交われば赤くなる」、と言われるように、腐敗した子供達ができあがるのは、火を見るより明らかです。その腐敗した子供同士の中に、微妙な歪みが発生し、その歪みの極大化としていじめが、頭角を現してしまうのは、必然の流れと言っていいわけで、大人世代の責任は重大極まりない、と言えそうです。

今、この日本において、謙虚に「我々大人世代がいじめの原因である」と認め、真摯に反省しうる人は、恐らく数え上げる人しか存在しないでしょう。なぜなら、大半の大人世代の人間は、自分は正しく、悪いのは自分以外の周囲、環境にある、と考える傾向にあるからです。誰でも、自分のせいである、自分の責任であると認め、引き受けることは心苦しいでしょうが、他人や周囲、社会、環境にしか責任をなすりつける事しか考えられない時点で、我々大人世代は、見事に腐敗している、恥ずかしいほどに腐敗している、と断言しても良いでしょう。
(まさに裸の王様状態(己の腐敗に気づいていない))

主観的に(自分の都合のよいように見ること)、いじめの原因を追求するのではなく、限りなく客観的にいじめの原因を追求するのならば、間違いなく原因は、我々大人世代にあります。これから順をおってこのことついて解明していきたいと思います。

「いじめの原因は、大人世代の腐敗にある」、という具体性に欠ける表現では、はっきり理解できないと考えられることから、4つのテーマを用意し、いじめの原因と対策を、詳細に述べることで、いじめの軽減に少しでも寄与したいと思います。

①いじめが起きている
②いじめの程度が近年悪くなってきている
③皆、イライラしている
④皆、外に対して攻撃的

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①いじめが起きている

  • 2007/06/28(木) 14:37:16

◆いじめの原因は何か?

  • 2007/06/28(木) 14:38:29

なぜ、いじめが起きているのでしょうか?また、なぜいじめが起きてもそれを阻止するように周囲が動かないのでしょうか?

まず、いじめについて私なりに定義しておきます。

『抵抗、反論ができなくなっている人間に対して、必要以上に、執拗に、言動、行動等で攻撃あるいは責め立てること、または無視することで孤立化させ精神的に追い込むこと』

このいじめの定義を前提にして、いじめが起きている原因に対し回答すると、

「善悪の判断ができなくなってきている」

だから、いじめが起きてしまう、起きてもそれを阻止しようとしない、ということになります。平たく言えば、いじめに対して「善い悪いの区別がつかない」ことが原因ということです。

一見こう答えると、「いやいや子供だって、善い悪いくらいは分かっていますよ」と、反論してくる方もおられると思いますが、とあるテレビでのインタビューで、小学生が、

「いじめられる側にも問題があるからいじめられるんだ。」

と、平然と、坦々と語っていました。この考えは、強者の論理という観点で見てしまえば、なんら問題のない発言に見られてしまいますが、前提として、いじめという行為は悪である、という絶対条件が見事に抜け落ちた欠陥のある考えであり、決して肯定されるべきではありません。

いじめられる側に問題があろうがなかろうが、いじめという行為が悪である以上、いじめという行為自体が肯定されるということは、永遠にあり得ない、という認識に立てば、こういった発言が出てくるはずがないのです。恐らく、この発言した小学生は、自己保身的な考えに固執していて、自分さえよければいい、という考えのもと、いじめる側を無意識に擁護したかっただけであり、今の子供世代の典型的なタイプと言えると思います。
どうも、今の子供世代にとってのいじめは、悪との認識というよりは、必然的に存在する中性的なもの、もっと言ってしまえば大多数が支持している正当なる行為、と捉えているようです。

人間にはもともと、名誉欲(優越欲)というものがあり、人よりも優越感を味わいたいという本能(本心)があります。この本能を満たす為に、自分以外の人間をいじめ、攻撃することで、相手の価値を引き下げ、優位性を確認したいだけであり、いじめというものは、本来本能から来ているものなのです。この名誉欲を満たす為にいじめをする、攻撃をする、という行為は、単に欲を満たすためだけのものなので、当然、悪たらしい行為であり、悪と言えるわけです。

子供自身がいじめを悪と認識できなければ、周囲がいじめを止めなさい、と注意しても、行動を改めることは難しいと考えます。また、単純に、いじめは悪い行為、悪いこと、というように、外圧的に教え込むだけでは一方通行的であり、表面上の理解は得られたとしても、心からの理解は得られないでしょう。
いじめを悪と認識するには、本人が心の底から、「いじめって、悪いことだなあ!」と、実感(納得)しなければ理解できないわけで、その為には、ある行為を教え、日々練習させてあげる必要があります。

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◆ いじめを悪と認識するためには

  • 2007/06/28(木) 14:40:02

いじめを悪と認識するためのある行為とは、「反省する」という事です。ここで、反省を私なりに定義しておきます。

「自分が過去にした悪かった言動、あり方に対して、その事実を認識し、認識した上で、その事実を受け容れ、その悪かった言動、あり方を、改めようと考えること」

これが「正しい反省」という行為であり、必要以上に自分を責め立てたり、必要以上に自分を追い込むことではありません。勘違いされている方もおられると思いますので、「正しい反省」と「間違った反省」を分かりやすい表現で説明したいと思います。

正しい反省:自分がした悪い行為を素直に認め、今後しないようにしっかり考えること(定義を分かりやすく表現したもの)

間違った反省:自分がした悪い行為を素直に認めることは無視し、ただ単に自分を必要以上に責め立て、追い込み、自己嫌悪に陥ってしまうこと(間違った反省の仕方で必要以上に苦しんでしまう)


間違った反省、のような捉え違いをしてきたおかげで、反省という行為は敬遠されてきましたが、この反省という行為が日常生活で減る、つまり悪い行為をしても振り返って反省をしないと、当然善い悪いの判断力が鈍くなり、いじめについても善いのか、悪いのか、すら判断できなくなる、という末期的な状態に陥ります。

「なぜ、反省をしないと善悪の判断力が鈍くなるのか?」について、分かりにくいと思いますので補足的に説明を付け加えます。

まず、悪(悪い行為)を学ぶ方法には、他人の行為から学ぶ方法と、自分の行為から学ぶ方法がありますが、本当の意味で悪を学ぶには、自分の行為から学ぶ、つまりは、自分の中の悪を見つめるしかない、というのが前提になります。他人の行為から学ぶのは、所詮、知った、分かったのレベルであり、他方、自分の行為から学ぶのは、理解、体得のレベルに達するものであり、両者は似て非なる関係にあります。

仮に、ある人が悪い行為をしたにもかかわらず、反省しないとすると、自分の中の悪を見つめる機会を失うことになります。これは、悪というものを認識し、学ぶ機会を失った、と言い換えることもできます。そして、反省をしない、という行為が何度となく累積されていくと、その人は、悪が分からない人間になる、と言えます。悪が分からない人間であれば、当然、区別という意味で、善も分からないので、善悪の判断ができないことになり、結果として、この人は善悪の判断力が鈍い人間ということができます。以上より、なぜ反省しないと善悪の判断力が鈍くなるか、の意味が理解できたと思います。

善悪の判断力が鈍くなったことで、いじめに対しての善悪の判断が希薄になってきている昨今ですが、要は、悪いことをしたら、しっかり反省する習慣をつけること、が大事であり、これによりいじめが悪であるという認識が持てるようになります。そのためには、もともと生まれながらにして反省するという習慣を人間は身に付けていないので、日々の練習が必要になってきます。また、反省の対象には、大小はなく、どんな小さなことであっても、反省は怠ってはならない、という心構えも必要です。

自分で、自分の行動を判断し、「悪いことをしたから、今回は反省せねばならぬ。反省をしよう。」、という自律的な段階になるまでは、周囲の大人達が、悪い行為をしたら、注意や指摘をし、間違いを教えてあげることが必要かつ重要なので、大人達の責任、役割は非常に大きいと言えます。大人達が道理に沿って、適切に注意・指摘をすることで、子供達は正しい反省の仕方を学び、反省の習慣を身に付けることができるのです。

反省の重要性について述べてきましたが、それではもともとどういった時(場合)に反省はするべきなのでしょうか?

・相手(周囲、社会)に迷惑をかけた時
・相手(周囲、社会)に危害を加えた時
・相手に指摘された時
・悪いことをした、と思えた時
・間違いを犯した時
・道理に反する行為をした時

全てを網羅しているわけではありませんが、6点挙げました。いずれも、自分の都合で判断してしまえば、反省の対象にならない可能性があります。それは、人というものは、そもそも生まれながらにして、善悪を明確に判断するものさしを持っていないがために、自分のエゴ(利己主義)で判断する傾向にあるからです。ですから、当然のことですが、周囲の大人達が、善悪を状況に応じて教えていく必要があります。

ここで、注意が必要なことは、大人自身が主観性を発揮して、自分なりの善悪で教えることは絶対に避けねばならない事であり、あくまで限りなく客観性を伴った善悪を教えていかなければならない、ということです。つまり、道理に沿った中でしっかり善悪を判断した上で教えていく、ということになります。また、世の事象(事柄・行為)に対して、全て善悪に分けてしまおう、との考えで、枝葉に至るまで、細かく教えなければならない、と躍起になる事は、子供の立場からすれば、混乱の極みになってしまう事なので、幹の部分、つまりは大筋を教えるというスタンスが大切であり、後は子供の個々の判断を見守るくらいの姿勢が適当であると考えます。

今まで、「反省」という言葉に対して、必要以上に自分を責める、追い込む、必要以上に責任を感じる、という誤認識・誤解のもと、敬遠されてきて、反省するという行為自体、疎かにされてきましたが、正しい反省の仕方をしっかり学び、反省を実行することで、いかに反省という行為が大切であるかを実感できるようになると同時に、善悪も徐々に理解できるようになっていきます。

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◆ 反省し謝罪すること(広義の反省)

  • 2007/06/28(木) 14:40:52

さらに反省の仕方について、一歩先に進めて考えていきます。それは、何か悪い行為をした時に、その被害を受けた相手がいる場合についてです。その場合、心の中で、「悪いことをしたなあ。自分の責任だ。今後はそうしないように注意しよう。」と、振り返り反省しただけで、果たして良いのでしょうか、という問題です。

ある意味、ここまで、心から反省できていれば、かなり反省心が育ってきているので、人としてかなりの成長であり、善悪の判断力についても格段に向上していると言えます。しかし、ここまででは、「反省した」とは言えなく、敢えて言うならば“中途半端な反省(状態)”、“自己満足の反省”ということになります。では、どこまですれば「反省した」、と言えるのでしょうか?

「反省心を持って、その相手の前まで行き、心より謝罪の言葉を声を出して述べ、頭を下げて詫びること」

ここまで出来て、反省という行為が完了したものと言えます。これは、生きている人間にとって、ある意味、困難な行為であり、出来ればあまりしたくない、避けたい行為ではないかと思います。表向きの形式的な謝罪であれば、社会生活を送っている中で、経験していることと思われますが、心より謝罪する、という行為は、なかなか難しく、敬遠されがちなものです。自分の責任であると認めることですら重荷であるのに、さらに相手の前に行って心から謝罪するとなると、ウルトラC以上の困難さを感じる方もおられるかもしれません。

しかし、この一連の反省(広義の意味での反省)をすることで、悪いことをした事をしっかりと認識できると共に、なぜそのようなことを自分はしてしまったのか、してしまうのか、という事をしっかり振り返ることで、自分の実像の一端(悪い一面)も理解することができます。
しかも、実像の一端、つまりは自分の悪い点を自らが認識し、受け容れることで、その悪い点が発動しないように注意して行動できるようになるので、不用意に同じ過ちを繰り返す可能性も低くなります。こういう状態になれば、「しっかりした反省ができている」、と言えるのです。

「反省し謝罪する」、という行為は、一朝一夕に習熟できる代物ではないので、日々の修練が必要になってきます。子供達に一歩一歩わずかであっても成長をして欲しいと思うならば、気の長い気持ちを持って、正しい反省の仕方を教えてあげ、一緒に実践することが重要になってきます。
また、子供は親の背中を見て育つ、と言われるように、子供は常に親の行動に関心を持ち、ちゃんと反省をしているのか、その行為に矛盾はないのか、をしっかり見ていることを、親は肝に命じなければならないでしょう。

今、いじめは確実に行われています。ここでは、いじめの原因に、「善悪の判断ができなくなってきている」を挙げ、その対策に、「正しい反省の仕方を学び、反省謝罪する習慣をつける」としました。反省謝罪をすることで、自分の中の悪を見つめ、悪を学ぶことにより、善悪を判断できるようになる子供が増えれば、いじめは減り、いじめが起きてもそれを阻止するような人間関係ができてくると考えます。

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②いじめの程度が、近年悪くなっている

  • 2007/06/28(木) 14:42:02

◆ いじめ悪化の原因とは?

  • 2007/06/28(木) 14:42:44

いじめは昔からあると述べましたが、なぜ、近年そのいじめの程度が悪化してきたのでしょうか?

①で論じた善悪の判断ができなくなっている(正しい反省の仕方を知らない)、に加えて、「多様性の容認」が、近年、いじめの程度を悪化させた張本人(原因)であると推定します。この推定を元に、多様性について論ずる前に、多様性を私なりに定義しておきます。

「様々な在り方、様々な考え方が存在すること」

まず、はじめになぜ多様性という概念が生まれ、世間一般に流布していったのか、について、見当がつくものを挙げてみます。

・戦争中の画一的なものの考え方、思想統制時代に対する反動
・アメリカ等、諸外国の影響
・規制緩和をきっかけに多様な考えが肯定されてきた
・個性重視の風潮
・グローバリゼーション(国際的な競争社会)の影響
・おもしろ至上主義

どういう形で、多様性という概念が生まれ、どのように世間のコンセンサス(同意)を得てきたのかは、非常に難しい論点であるので、ここでは割愛させて頂きますが、現在、日本において、この多様性という考えを意識・無意識を問わず、容認している傾向にあることは、ほぼ間違いない事実と言えると思います。

現在、多様性社会真っ盛りですが、いきなり、「多様性がいじめの程度を悪化させたのだ」、と言うと、「その考えはあまりに乱暴な意見である」、と考えられる方もおられるかもしれません。多様性社会は、様々な恩恵を我々日本人にもたらしているので、いじめと直結するのはナンセンスである、と擁護される方もおられるでしょう。

ただここで考えて欲しいのは、我々が当たり前だと思っている事が、実は今社会で重大な問題とされていることの元凶、つまり原因である場合が多く、見逃されがちであるということです。

この多様性も、我々大人世代にとっては、ある意味、当たり前の存在であるし、この多様性に問題がありますか、と、突然質問されれば、「特に考えたことはない」、とか、「問題があるようには感じない」、とか、「多様性を認めるのは良いことだ」、等の答えになるのではないかと思います。

しかし、こういった空気のような存在が、得てして、我々の死角に存在することで、「問題の原因として挙げられない」、という典型的な例として、今回、多様性が挙げられる、ということなのです。

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◆ 多様性を背景に反省する機会が激減した

  • 2007/06/28(木) 14:44:21

では、なぜ多様性の容認がいじめの程度を悪化させた原因と言えるのでしょうか?

A. なんでもありの風潮(法律に触れなければ何をしてもいい)

B. 注意・指摘することはタブー(禁句)とする風潮

上記2点が、多様性を背景に顕著に現れている風潮です。

なんでもあり、とは、「法律に触れなければ何をやってもいい」、という考えで、元ライブドアの堀江氏や村上ファンドの村上氏などは、この考えに近い思想を持っておられたのではないかと推測します。確かに、法治国家においては、最低限、法律を守りさえすれば、許される、かもしれません。しかし、道徳・倫理、人道的立場、絶対的な善悪、道理の観点からすれば、たとえ法律に抵触していないにせよ、人の道から外れる行為は、許されるはずもありません。

法律に抵触しないから、という理由を盾に世間ではかなり“横暴な行為”が、“不条理な行為”が頻発しているのではないか、と推測されますが、こういった横暴で理不尽な行為の被害にあっている人間からすれば、到底許される行為ではありません。被害を受ける立場になっていない人達、つまり加害者の人間が、なんでもありの悪い面を活用しているのですが、このことにより日本人の質の低下、治安の低下、犯罪の多発、拝金主義の風潮の蔓延、が顕著に現れている、と言えます。

注意・指摘することはタブーとする風潮とは、「多様性」と「個性重視」という考え方(風潮)により、ある人間が行った行為に対して、悪い行為である、と認識しながらも、指摘しにくい、注意しにくい、という風潮であり、結果として悪をのさばらせることになります。この風潮を助長させたお題目とは、「多様な考えがあり、多様な人間が存在していい、そして個性を重視していこうではないか」という、いかにも正しいかのような表向きを持つのだが、無軌道にわがまま好き放題をする人間からすれば、なんとも有り難い風潮と言えます。

この風潮は、そもそも多様性と個性重視を導入した時点で、悪い行為に対する注意・指摘の有り様を全然考慮してなかったという欠陥のおかげで、注意・指摘することはタブーとする風潮を台頭させてしまったと考えることができます。

今の世の中、かなり情報や考えが錯綜している面もあって、良い多様性や個性(周囲に対する配慮のあるもの)であれば、それは大手を振って肯定すればよいのですが、どうも悪い多様性や個性であっても、しぶしぶながら容認せざるを得ない、という苦しさがあるように見受けられます。

前置きは長くなりましたが、「なぜ多様性の容認がいじめの程度を悪化させたのか」と言うと、それは正しい反省の仕方を知らないという事に加えて、多様性容認という時代背景が後押しをする形で、反省する機会が極端に減ったからです。

大人達が多様性社会に浮かれに浮かれ、なんでもありの社会を容認し、悪いことをしても注意や指摘が極力なされない、となれば、大人達もそうですが、子供達は注意・指摘される機会を失い、それに連動して反省する機会が減り、善悪がますます判断できなくなることで、いじめをしてしまう、あるいは、いじめの現場を見ても見ぬ振りをしてしまう、という現状に行き着いてしまうわけです。

これは多様性の負の側面が、大人社会のみならず子供社会をも飲み込んだ結果、子供達の腐敗化、子供達の質の低下を招いているのではないでしょうか。

大人社会においても、腐敗した大人同士のやりとりなので、当然職場において、いじめに類することは起きていることでしょう。自殺、精神疾患、過労死、DVの増加は、いじめに端を発している可能性を秘めており、大人達にとっても、多様性の容認は、明日は我が身と言えるのではないでしょうか。

子供は、親の背中を見て育ちます。大人社会でいじめが起きていれば、当然、子供社会においてもいじめは起きるわけで、我々大人世代は、自らの責任を認識し、衿を正し、間違った多様性の容認を破棄していかなければなりません。

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◆ 多様性に代わる概念

  • 2007/06/28(木) 14:48:30

◆ 多様性に代わる概念

では、多様性なるものを、善い悪いの判別をせずに容認してきた、そして今現在も容認し続けているこの社会に対して、我々はどのように変革していけばいいのでしょうか?

正直なところ、良い多様性と悪い多様性が、今世の中に混沌とした形で存在していて、容易に選り分けすることは、至難の業なわけで、この多様性という概念に沿っての改善あるいは変革というのは難しいと考えます。そこで、登場してくるのが、「道理」という概念です。ここで用いる道理とは、真理のことですが、私なりに道理を定義しておきたいと思います。

「真実で永遠不変の事実あるいは法則」

ただ、一言で、このように定義されても、「なるほど道理とはこういうものなのか、なら、その道理に沿って生活していこう」と、納得感を持って捉えるというのは非常に難しいかと思いますので、もう少し詳しく説明したいと思います。

道理の中には、因果律というものがあり、これは「原因と結果の法則」と言い換えることができます。原因と結果の法則とは、文字通り、「原因があれば必ず結果が生じる」という法則です。ただ、原因だけで結果が生じるのか、と言えば、縁という条件が加わることが必要であり、「原因と縁と結果の法則」、というのが本当の表現になり、因縁果報はそれを表現した言葉です。

「原因があって、その原因がある縁と結びつき、結果を生じせしめる」、これを本書では、因果律、と呼び、以下、この表現を使っていきたいと思います。

因果律には、「自業自得」、という法則がありますが、これは、言い換えれば、「自因自果」ということになります。自因自果とは、自分で行った行為は必ず自分に結果として返ってくる、という意味です。もう少し、分かりやすく表現すると、自分に降り懸かった災難(結果)は、必ず自分に原因がある、自分の責任である、ということです。

ところが、人というものは、自分に都合の良い見方をしてしまうので、自分に降り懸かった災難を、他人や周囲に原因がある、他人のせい、と考えがちなのです。これは、自因自果と反する言葉として、他因自果と表現できます。他因自果は、文字通り、他人のせいで、自分に悪い結果が生じた、ということであり、これは、因果律に反する考えと言えます。なぜかというと、因果律においては、自因自果は正しく、他因自果は間違いだからです。また、他因自果の考えを持つことは、人のせいにするという考えであり、この考えを持つということは、必然的に、恨みを持つということになります。

これから、いくつか事例を見ていく上で、どうしても「自利利他」という概念に触れておかないといけないので、簡単に述べたいと思います。
自利利他とは、人を幸せにしようとする人は、自分も幸せになれるという考えです。自利は、自分が幸せになりたい、利他は人を幸せにしたい、ということです。これから紹介する悪いと思われる行為(生き方)は、自利の気持ちで行われるものであって、利他の気持ちは欠けている、ということを念頭に入れて見て頂きたいと思います。

・人に迷惑をかける行為
・自分さえよければいいという生き方
・物を盗む行為
・必要以上にお金稼ぎをすること
・人を殺めてしまうこと
・人をいじめること
・人との約束を破ること
・人を裏切ること

人に迷惑をかける行為は、少なくとも相手から恨みを買うことになり、他因自果を誘発する行為と言えます。

自分さえよければいいという生き方は、我欲、自己中心的、利己的な生き方であり、周囲との摩擦は避けられないものとなり、結果として周囲に迷惑をかけることになります。これも恨みを買うことになり、他因自果を誘発する行為と言えます。

物を盗む行為は、盗まれた所有者から恨みを買うことになり、これも他因自果を誘発する行為と言えます。

必要以上にお金稼ぎをすることは、限られたパイの中で、自分だけが必要以上に富を得ることであり、結果としてパイの配分が少ない者が現れてくることから、その者から恨みや嫉妬心を買うことになるので、他因自果を誘発する行為と言えます。

人を殺めてしまうことは、何よりもかけがえのない相手の命を奪うことであり、無念にも殺された側にとっては恨んでも恨みきれない思いでしょう。また、天涯孤独ではない者であったならば、その家族や親戚から恨みを買うことになるので、他因自果を誘発する行為と言えます。

人をいじめることは、相手をいじめ苦しめることであり、いじめられた者から確実に恨みを買うことになるので、他因自果を誘発する行為と言えます。

人との約束を破ることは、約束を破られた者から怒りや恨みを買うことになるので、他因自果を誘発する行為と言えます。

人を裏切ることは、裏切られた者から怒りや恨みを買うことになるので、他因自果を誘発する行為と言えます。

これらの事例から言えることは、悪いと思われる行為は、いずれも他因自果を誘発する行為であるということです。相手に、恨みを抱かせ、人のせいだと思わせるものであり、これは、因果律に反するものと言えます。因果律に反するということは、道理の中に因果律があることから、「道理に反している」、ということができます。つまり、人が行う行為の中で、悪い行為というものは、道理に反した行為であり、人はその行為を回避するよう努力する必要があるということです。
以上、悪い行為を例に道理の説明をしてきました。道理に沿った行為なのか、道理に反した行為なのか、これを峻別するには、道理の中にある因果律を理解し、これを基に判断すればよいことが分かります。

昨今、多様性社会により善悪が不明瞭になっていますが、道理に沿った行為は善、道理に反した行為は悪、という選り分けは、多様性を排他した上での、明確な判断基準として、今後の社会に有効であると考えます。ここで、一つ注意しなかればならないのは、道理というものは、学校の授業で行われていた道徳(倫理)とは異なるものであるいう点です。道徳とは、時代や国によって変化するものであって、一貫性はなく、固定的なものではありません。それに対して、道理というものは、時代や国に依らず普遍性を持ち、どこでも通用する代物です。この違いをはっきり認識した上で、道理と道徳を明確に区別し、混同した形で扱わないように注意して頂きたいと思います。

今、多様性社会のもと、物事の考え方に一貫性や筋を通す、という風潮が崩壊しつつあると思います。「あ~いう意見もある、こういう意見もある、こういった考えもある」、といった形で、多様性という思想を背景に、様々な意見・考えを容認することが美徳である、人間として優れている、人格者である、といった飛んだ錯覚に陥っている大人達が今世間で蔓延しています。これは多様性というマインドコントロールに支配され隷属しているだけであり、彼らに主義主張があるわけではありません。これがもし、物事に一貫性や筋を通した上で、「他にも注意すべき考えがある(他にも視野を広げるべきだ)」、という主張であれば、全体的視野に立っての洞察になることから、肯定されうる行為にはなります。

しかしながら現状は、一貫性や筋は通さず、多様性という風潮に左右されるだけ左右され、善悪の判断に至っては、「心許ない」、というのが実態ではないでしょうか。

善悪をしっかり判断できる状況で、多様性を精査した上で容認するのならば、有用だとも言えますが、どうもこの多様性という思想は、諸刃の剣であろうと考えられます。つまり、人によっては有用に使えるが、人によっては悪用もできる、ということであり、このリスク性から判断すると、この多様性という概念(考え)は使用しない方が、我々人類にとって好ましいと考えます。

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◆ 道理に沿った社会がいじめを減らす

  • 2007/06/28(木) 14:50:17

多様性という概念に沿っての変革は困難であることから、道理という概念を代わりに導入することで、物事の判断基準(善悪の判断基準)としての役割を担ってもらうことが適切であると考えています。
この道理に沿って、物事を判断していく、人として正しいことなのか、正しくないことなのか、をしっかり判断していくことが大切であり、これにより多様性社会が生み出した、「なんでもありの風潮」や「注意・指摘することはタブーとする風潮」は徐々に排除されていくでしょう。
そして、道理という概念が定着し、「なんでもありの風潮」の度合いが軽減すれば、「そうか、なんでもありではなく、物事にはやっていいことと、やってはいけないことがあるのだな。」という捉え方ができるようになり、最終的にはいじめが減っていく社会、いじめが起きても阻止するような社会になっていくと考えます。

例えば、「人を騙しても、お金さえ儲かればいいんだ。」と上司に言われたとします。悪い多様性の考え方で捉えれば、「なるほど、人を騙すことは悪いことだが、金儲けする上では仕方のないことだし、そういう考えも容認されるはずだ。」という考えに落ち着き、この部下は、人を騙す行為を肯定してしまいます。

しかし、この部下が道理を熟知していたならば、「仕事だから、辛いことや困難なことをするのは当然であるが、しかし、お金儲けとはいえ、人を騙すという道理に反した行為はすべきではない。」との考えに至り、人としての道を外さずに済むことになります。

この例から分かることは、道理という概念に沿って考え判断できるようになれば、たとえ「なんでもありの風潮」から多大なる恩恵、利益を享受しようとも、その悪しき風潮に振り回されることなく、しっかり人としての正しい判断、正しい生き方をすることができる、ということです。人にとって、なんでもありの風潮は、「百害あって一利なし」、という事実を認識し、我々大人世代は積極的に猛省し考えを改めるよう努力すべきです。

多様性容認の考えが廃り、「なんでもありの風潮」が衰退すれば、恐らく、「注意・指摘することはタブーとする風潮」も変化していくと考えます。

そして、注意・指摘することが可能な環境になれば、子供達が明らかに悪い行為をした場合に、近くにいる大人達がその時その場所で注意・指摘を当然のように行うことができ、行われることによって、子供達は、なぜ注意されたのか、なぜ悪い行為であったのか、今後どうすればよいのか、といった振り返り・反省の機会が得られるようになります。それと同時に、振り返り・反省を行うという機会が、現代若者の弱点である、「自分の頭で考える」という習慣を修得する役目も担うことになります。

このように、反省するという機会は大人が注意・指摘することで得られるわけですが、そうなれば、子供達は反省することで悪を学び、また道理を判断基準にして物事の善悪を判断することで善悪を学び、この二つの行為から、「いじめをしたいという心はあるが、いじめは悪であり、絶対にしてはならない」との理解が深まることでしょう。このように、反省と道理を両輪にして、善悪の判断ができるようになれば、容易にいじめに繋がる行為は起こりにくくなり、いじめは軽減していくと考えます。

繰り返しにはなりますが、いじめが起きている原因は、善悪の判断がつかないから、であり、これには2つの要因が考えられます。
・善悪の判断基準である道理を知らないから
・正しい反省の仕方を知らないから
そして、いじめの程度が近年悪くなっている原因は、多様性容認という風潮により、反省する機会を極端に失い、ますます善悪に対して判断がつかなくなったからです。今の世の中、どこを見渡しても、善悪に厳しいという風潮は皆無に近く、ある意味、無法地帯、と言えるのではないでしょうか。

我々大人世代は、自分達の欲望を満たすためだけに、多様性という概念を容認し、悪い多様性を放置し続けてきました。この多様性という概念は、自らを滅ぼすのみならず、周囲をも滅ぼす、という麻薬にも似た怖ろしい性格を持っていると考えられます。
今、自らの諸行を猛省し、麻薬にも似た多様性を手放さなければ、自らの存在をも食い尽くす形で、我々日本人は崩壊し、再生不能の住みにくい社会を形成していくことは想像に難くないのではないでしょうか。

年間自殺者、約3万人。この数値の何割かは、この歪んだ多様性社会の犠牲者であることを、真摯に受け止め、真摯に反省し、素直に心を改める必要性を認めるべきではないでしょうか。

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③皆、イライラしている

  • 2007/06/28(木) 14:51:05

◆ 人は妄想を描くもの

  • 2007/06/28(木) 14:51:58

イライラしてしまう、ということは、何も今に始まったことではありません。昔からあることなのですが、昨今特に、日本人はイライラが募っているように感じます。ストレス社会と呼ばれ、効率化、効率化と叫ばれ、残業しても経費節減のため、サービス残業になってしまう悲惨な現状。働いても働いても報われることが少なく、我慢我慢の連続で、意味もなくイライラしている、あるいはイライラしてしまうあなた、それは過労死への序章かもしれません。

規制緩和、グローバリゼーションなどにより社会が終焉のない競争社会に迷走してしまっている、という事実もイライラの原因ではあると思いますが、さらに奥深く切り込んで、なぜ、人はイライラしてしまうものなのか、という観点で論じていきたいと思います。
いじめとイライラとの関係に何かあるのか、と思われるかもしれませんが、このイライラという現象が少なからず、いじめを起こしている一端を担っていると考えられるため、この論点を外すことはできません。
具体的に言えば、「イライラするから、あいつをいじめて解消してしまえ」、という短絡的ないじめ
が意識・無意識を問わず行われているのではないのか、と、懸念するわけで、もし、そうであるなら、その原因となるイライラのメカニズムを解明しなければいじめを減らせない、と考えるからです。

まず、イライラの定義をしておきます。

「思いどおりにならなかったり不快なことがあったりして、神経が高ぶるさま」(引用)

人は、生きている中で、「こうなったらいいなあ。ああなったらいいなあ。」というような、妄想を描きながら生活しているものです。そして、その妄想というものは、自分に対して、相手に対して、周囲に対して、社会に対して、矛先が向き、その対象に対して期待をかけます。

妄想を私なりに定義しておきます。

「根拠もなくあれこれと想像すること、あるいは、とらわれの心によって、真実でないものを真実であると誤って考えること」(分かりやすく言えば、自分で勝手に作り上げたもの)

ここでは、妄想の中でも、「自分や周囲に期待をかけてしまう妄想」に特化して話を進めていきたいと思います。

さて、ここで問いかけたいのですが、我々が抱く妄想というものは、期待通りの結果を出してくれるものなのでしょうか?

答えは、ノー、である場合が大半です。妄想というものは、根拠のない、裏付けのない思いであり、その妄想に対して、盲信して期待をかければ、大半が裏切られてしまうものなのです。

「根拠のない妄想を描くこと自体が悪いのではないのか。」との意見もあろうかとは思いますが、人というものは得てして、妄想あるいは、妄想に近い想像を持って、自分、相手、周囲、社会に対して期待をかけ、その自分がかけた期待に見事に裏切られて、落胆するという愚かしさを繰り返す動物なのです。そして、期待をかけて裏切られたことで、人というものはイライラしてしまうものなのです。これがイライラのメカニズムであり、皆がイライラしてしまう原因なのです。さらに、人というものは、このイライラの原因を他に求め、自分のせいであるとは露ほどにも感じないという愚かさすら露呈してしまうのです。

こう考えてみると、人というのは実に愚かで、一人上手であり、我が身が見えていないことが分かります。しかし、今の競争社会においては、世間を注視することに心を奪われ、我が身や我が心を振り返る余裕がないことを考慮に入れると、ある意味、こういった一人上手の風潮は、必然の結果と言うことができます。

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◆ イライラの原因は?

  • 2007/06/28(木) 14:52:56

イライラについて、例えを一つ挙げます。

会社の先輩に対して、「あの先輩は良い人だし、表裏のない人だから、約束を破るようなことはしない」というように考えていたとします。そして、その先輩と仕事上で、とある大事な約束を交わしたのですが、その約束がなんと見事に破られてしまった、という状況が起きたとします。当の先輩は、「悪い、悪い、ついつい忙しくて、約束してたけど忘れちゃっていて・・・。なんとかなるよね?」との誠意のないお言葉。後輩である私は、「はい、なんとかしますので。大丈夫ですよ。」と表向きは冷静に応対したものの、腹底では、「なんて先輩だ。私は心から信頼していたのに~!」と、イライラ。

この例での後輩のイライラの原因はどこにあるのか、と言えば、良い人で表裏のない人は約束を破らない、という根拠のない妄想で、先輩に期待をかけた、あるいは、先輩を美化し、理想化したことによって、自分が勝手にかけた期待に裏切られた、だけであり、原因は自分の中にあることが分かります。そして、一旦起きたイライラがなかなか収まらないのは、裏切られた原因が先輩にあり、先輩のせいにしている、つまり人のせいにしているところにあります。(道理に反しているのでイライラしているとも言えます)

では、どうすれば、イライラの程度を軽減できるのか、と言えば、まず、人というものは、どういう人であろうが、場合によっては約束を破るものだ、との認識を持ち、間違った期待をかけないことが大切ということです。

不完全な存在の人間ですから、約束を破ることがあっても、なんら不思議はないのです。
仮に約束を破られても、「やはり人間というものは時として約束を破るものだなあ。」というように捉え、人のせいにしないこと、裏切られ感を持たないことが肝要です。もし、ここで少しでもイライラを感じていたとするならば、受け止め方を変え、自分のせいでもある、自分にも少し責任はある、とすることで、イライラ感の持続を消すことができます。これは、自分のせいにするのは道理に沿った考えで、他人のせいにするのは道理に反した考えであることを基底にしています。
そして、場合によっては冷静に相手の悪い行為に対しては反省を促す意味でも指摘してあげることが大切です。

それでは、人はなぜ、妄想という考えを基に、期待をかけてしまうのでしょうか?

それは、「“真実(一般論的な真実)”を知らない」ために、勝手に利己的な妄想や理想を思い描いてしまうからです。

人は、究極に追い込まれれば約束を破るものだ、裏切るものだ、人は縁があれば浮気をしてしまうものだ、という真実を知っていれば、自分や周囲に対して、妄想や理想を過度に描くことはありません。もし、妄想や理想を過度に描かなければ、当然、その虚像(自分が作りだした妄想・理想)に対して期待をかけることもしないので、裏切られることもありません。ここで注意して頂きたいのは、自分や周囲に対して諦めを持ちなさい、ということではなく、真実(一般論的な真実)を知ることで、己の身勝手な妄想・理想に振り回されないことが肝心ということです。

人は、得てして、自分や周囲に対して理想化してみたり、美化したりしてしまいます。しかし、それは真実ではないので、裏切られ、当然、理想と真実とのギャップに落胆させられ、ストレスを感じ、イライラに陥ってしまうのです。真実を知らないがために一喜一憂しているのが、我々であり、愚かな人間にならないためにも、そしてイライラしないようにするためにも、真実を知り、学ぶことが必要なのです。

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◆ 真実とは?

  • 2007/06/28(木) 14:54:04

では、真実とは一体何なのでしょうか?ここで、真実を定義しておきます。

「嘘偽りのない本当のこと」

真実という言葉を出すと、哲学、宗教的な色合いを感じる方もいて、敬遠されがちですが、我々人間がこの大宇宙の中で生きていくためには、この真実という言葉は欠かせないもの、と言えます。

科学の発展においても、事象を観察し、「これが真実ではないのか。これが真理ではないのか。」という仮説を立て、様々な実験等による裏付けにより、仮説を証明する、という形で、科学という知見の蓄積を今日に至るまでしてきたことから、真実という視点は欠かせないものなのです。

人間社会においても、様々な真実(一般論的な真実)はありますので、ここで私見を挙げてみたいと思います。

・他人の評価はあてにはならない(他人の評価を無視しろ、という意味ではありません。他人の評価に一喜一憂するのは愚かであるということ。)
・他人は思ったとおりの行動をしてくれない(自分の都合通りに相手は動いてくれない)
・他人の問題は、本人しか解決できない(本人がその気にならないと、その問題は解決しない)
・縁があれば、人はとんでもない犯罪を犯してしまうものである(それぐらい人とは危うい存在である)
・自分の考えは正しい、とは言い切れない。(その時は正しい、と思っていても、得てして間違いの場合が多い)
・自分に降り懸かった災難・問題は、自分の責任である(数%でも自分に非があるのなら、自分のせいと認めることが、道理に沿った生き方である)
・客観的に、物事を見ることは不可能(どうしても主観的要素を排除できない)
・人間社会に自由というものはない(地球空間という限られた空間に存在し、限りある命しかない人間が、無限の自由を持っているわけはない)
・人間社会は差別があるものだ(平等というのは幻想であり、実世界では差別が存在する)
・自由と平等は共存しない(自由性を謳えば平等性は崩れ、平等性を謳えば自由性は失われる)
・科学は万能ではない(科学は、大宇宙の真理の一部を人間の手によって解明したに過ぎない)
・人間は不浄極まりない存在である(不浄極まりない存在である自覚を持ち、道理に沿って生きることが人として大切)
・人は、縁があれば浮気をしてしまうものである(それぐらい浮気性なところが人間にはある)
・人は究極に追い込まれると、裏切るし、約束を破るものである(相手を必要以上に美化するのは危ういということ。裏切りや約束を破る行為を肯定するものではない)
・人間は不完全な存在である(人間に完璧を求めてはいけない)
・人は生まれたならば、必ず一度は死ななければならない

以上のように真実を挙げましたが、どう感じられたでしょうか?

これらの内容は、どれもこれも巷で言われているのと正反対であり、とても信じるに値しない代物である、という感想だと思います。あまりにも疑わしい、という疑念だけが残ったのではないでしょうか。

しかしながら、我々が知識を得る時には、歴史から学ぶ、新聞等のマスメディアから学ぶ、偉い先生から学ぶ、等であり、その知識に対して、さほど良否の判断をしていないのが実状であり、鵜呑みに近い修得であったはずです。

巷で言われていること、世間の常識と呼ばれるものは、あくまでキレイごとであり、真偽に照らしてみれば、偽に相当するものが大半なのです。「疑わしきものは信ずるべかず」、という観点で、私が挙げた真実と、巷の真実とを主観性を抜きに精査してみて下さい。おそらく、吟味し、時間をかけることで、違った認識が生まれてくるでしょう。

今まで、これは正しく真実に違いない、と思い込んでいた事柄に対して、飛んでもない裏切りを受けた経験がある方もおられるかと思います。なぜ、裏切られるのか、どうして裏切られるのか、と、迷宮に迷い込んだ方、あるいは、割り切ってそういうものだと諦めていた方。

その裏切りの原因は、まさにその事柄が虚偽であったからだと言えます。そして、本当の意味での真実を知らないのであれば、その虚偽が虚偽であることすら分からず、その虚偽に永遠に踊らされ続けるのが関の山であり、この解決には、本当の意味での真実を知り、学ぶ他はない、と言えるのです。

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◆ 真実の核心、キレイごとを好む人間

  • 2007/06/28(木) 14:54:52

真実について、抽象的で分かりにくいので、簡単な例を一つ挙げます。

ある女性に彼氏がいて、その彼氏が浮気性だとします。そしてある時、浮気がバレて、「もう二度としないから、今回は許してくれ。」と謝罪したとします。女性としては、彼氏が謝罪し懇願したという手前、内心は許し難い一件ではあったが、今回は、ということで許しました。ところが、性懲りもなく、すぐに浮気が発覚。この女性は、あまりのショックで寝込んでしまいました。

慣習的に知り得た知識・情報 ⇒ 人は浮気をしないものだ
(道徳・倫理・常識)      (私の彼に限っては浮気をしないものだ)
                (浮気をしない人がこの世には必ずいるはずだ)

真実(一般論的な真実)   ⇒ 人は、縁があれば浮気をしてしまうものである

この女性は、自分が知り得た慣習であるところの、「人は浮気をしないものだ」を真実であると捉え、彼に対して期待し、そして思い込んでいたおかげで、二度目の彼の浮気によって、見事に期待が裏切られるという結果を得ることで、寝込んでしまったということです。この女性はこの虚偽の考えを改めない限り、永遠にこの虚偽に踊らされ、永遠に裏切られることで苦しむことでしょう。

これがもし、真実を知り、学んでいれば、仮に彼氏が浮気をしたとしても、「人というものは、縁さえあれば浮気してしまうものだから、私の彼氏もその真実に沿って浮気をしてしまったのね。なんて、愚かな人なんでしょ。」との捉え方になり、必要以上の裏切られ感がなくなり、イライラ自体も軽くて済むことになります。

この例から分かることは、真実を知っていることと、知らないこととでは雲泥の差がある、ということであり、生きていく上での生きにくさの元凶はまさにこれである、ということです。この元凶を取り除けば、つまり真実を知っていけば、無駄に苦しむこともなく、気持ち的に楽な生活を送ることも可能になるのです。

前述で、妄想の定義をしましたが、そこに、「とらわれの心によって、真実でないものを真実であると誤って考えること」と、示しました。彼氏の浮気性の例において、真実でないものを真実であると考えていたのが、この女性でしたが、実は、この女性は、妄想を描いていた、と言えます。ですから、我々が常識と考えている事柄も、しっかり検証してみると、実は妄想の範疇に入ってしまう可能性が高いわけで、常識だから大丈夫、という安易な考えではいけないことが分かってきます。

それでは、なぜ人は真実を好まず、妄想的な慣習や常識を好んでしまうのでしょうか?

それは、まず人というものは、「キレイごと」、が大好きだということができます。人は裏切らないものである、人は約束を守るもの、人は浮気をしないもの、等々、自分にとって都合の良いキレイごとが、人はとにかく大好きなのです。

逆に、真実というものは、「え~、なんでぇ~、そうなのぉ~!!」と反発したくなるようなものが多く、なかなか認め、受け容れることができない考えなので、人は、真実から逃避し、回避し続けることで、キレイごとにしがみついてきた、これが実態ではないかと思います。

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◆ イライラしないためには

  • 2007/06/28(木) 14:55:43

「皆、イライラしている」、というテーマに対して論じてきました。ここで、整理とまとめをしておきたいと思います。

イライラの原因は、

「根拠のない妄想を持って、自分、相手、周囲、社会に対して期待をかけ、その自分がかけた期待に裏切られ、落胆するため」

ということです。

イライラを軽減させるためには、

「真実を知り、しっかり学ぶこと」

です。

真実を知り、しっかり学ぶこと、という表現で全てが集約されてはいますが、なかなか理解しにくいかと思います。真実を学ぶ、ということは、裏返して言えば、根拠のない妄想、理想、を描かない、抱かない、ということであり、真実のみを見よ、ということです。そして、真実を学ぶことに加えて道理を学ぶことも大切です。なぜかと言えば、道理とは、「真実で永遠不変の事実あるいは法則」と定義したように、道理は真実を包含するという関係にあるからです。大元の道理と真実を同時に学ぶことで、人としての生き方、そして物事の見方が分かり、不毛なことで一喜一憂しなくてよくなります。

真実を知り、しっかり学べば、相手に対して必要以上に期待をかけることはなくなり、裏切られたり、がっかりしたり、失望感を味わったり、ショックを受けたり等々も極力起きなくなります。また、相手を理想化したり、相手を美化したり、ということを人は得てして、してしまいがちですが、所詮、相手も自分と同様、不完全な、そして大した人間ではないわけで、こういった誤認識による相手への期待感自体、百害あって一利なしと学ぶのが肝要と言えます。

イライラして子供の話が聴けない、イライラして子供に八つ当たりする、イライラして子供に暴力を振るう、イライラして子供に暴言を吐く、イライラして子供に笑顔をふりまけない、イライラして子供を手にかける、等々が、実際の家庭の現場において起きていないでしょうか?

こういった親のイライラというものは、確実に子供に伝承され、イライラしている子供達がいじめを起こし、さらには学級崩壊を演出している、つまり親のイライラ、大人のイライラを一原因として子供のいじめが起きている、と考えられるわけで、イライラを軽減するためにも、真実を学んで頂きたいと思います。そして、真実を学んで、真実に沿った生活をしていく中で、子供達にも真実を適切に教え、イライラのない親子関係を築いて欲しいと思います。

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④皆、外に対して攻撃的

  • 2007/06/28(木) 14:56:15

◆ 攻撃的な態度とは?

  • 2007/06/28(木) 14:56:52

最近、人々の態度というものが、攻撃的であるように感じます。人というものは、不完全な存在なので、誰であっても失敗をしてしまいますが、その失敗に対して注意・指摘する側が、過剰な態度(傲慢な態度)で注意・指摘をしている様子が窺えます。注意・指摘のはずなのに、怒声を浴びせたり、感情的になっていたり、鬼の首を取ったかのように勝ち誇っていたり、相手が反省しているのに執拗に時間をかけたり、と、傍から見ても不快感を感じてしまうような、「攻撃的な態度」、あなたも経験したことはないでしょうか?

ここで、攻撃的な態度を定義しておきます。

「激しく、責め立てる・指摘する・注意すること」

攻撃的の反対語は、守備的ですが、自分というものを守る一つの方法として、徹底的に相手(周囲)を攻撃する、という方法もあるかと思います。この方法は、人として生きていく上で決して許されるものではありませんが、自分を守って守って守り抜く方法が他に見つからない場合は、こういった卑怯な方法を選択せざるを得ないのかもしれません。

「徹底的に相手を攻撃する」ことを選択するタイプは、恐らく自分自身に自信がなく、自分自身を知ろうともしない、愚かしい人間だと言えます。仮に、徹底攻撃を止めれば、周囲から意見を求められたり、質問をされたりする立場に変わり、それに対して答えなければならないのですが、もともと自分というものを持っていないことから、うまく自分を表現できず、明確に回答することは不可能に近いでしょう。こういった失態は、自信喪失に繋がり、辛い気持ちになるので、どうしても避けたく、その結果、徹底的に相手を攻撃することを選択してしまうのだと考えます。

人というものは弱い存在ですが、自分の虚構を守るためだけに、虚勢を張る、つまり徹底的に相手を攻撃するのならば、それはあまりに愚かしい行為であり、即刻止めるべきでしょう。もし、徹底的に相手を攻撃することの愚かしさに気づけないとするならば、その人は、一生孤独な人生を余儀なくされ、その孤独の理由すら分からないまま、途方に暮れる迷いの旅人になることでしょう。

攻撃的な態度のメリットは、今説明した通り自分を守ることができる、または、攻撃的態度、高圧的な態度であることにより、周囲に対して優位性・優越感を感じることができる、あるいは、自分の正しさを証明することができる(自己満足)、といったことが挙げられます。

逆に、攻撃的な態度のデメリットは、反省心の足りない自信欠如の自分になる、自分自身の実像が見えない、周囲から敬遠される、裸の王様になる、愚痴が多くなる、寂しい人間になる、といったことが挙げられます。

攻撃的な態度のメリット、デメリットを挙げてみましたが、実は、よく考えてみると、全てデメリットであることが分かります。自分を守るにしても、優越感を感じるにしても、自分の正しさを証明するにしても、それは単に一過性の話であり、その場しのぎの先送り行為にしか過ぎず、また、それらの負の側面が必ず自分に悪さを与えるからです。従って、攻撃的な態度が、心から肯定できるような行為ではない、つまり後ろめたく、道理に反する行為ならば、それは、メリットと言える代物ではなく、デメリットと言うべきでしょう。

以上から分かるように、攻撃的な態度にはデメリットこそあれ、メリットは一つもないわけですが、この事実をしっかり認識した上で、詳細を論じていきたいと思います。

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◆ 世間の風潮 ~ つっこみという行為の危うさ ~

  • 2007/06/28(木) 14:57:41

攻撃的な態度の大枠を少し見てきましたが、世間の風潮はどうなのでしょうか?

攻撃的という表現は世間ではされていませんが、攻撃的な態度は大筋容認されているように感じます。ただ単に攻撃的というのは当然嫌われるのですが、「攻撃的な態度とおもしろさを加味している場合」や「攻撃的な態度の後にフォローしている場合」は、攻撃的な態度自体が良い意味にカムフラージュ(偽装)され、肯定されるような雰囲気を与えることから、なんとなく容認、という形になっていると分析されます。

日常において、こういった攻撃的な場面に出会い、何度となく刷り込みを受けてしまうと、大抵の人が、この攻撃的な態度を知らず知らずのうちに容認してしまうのも仕方のないことかもしれません。

今、テレビを中心にお笑い番組が隆盛です。二人組の芸人の場合、「ぼけ」と「つっこみ」、という役割分担をして、笑いを提供していますが、このつっこみという行為に危うさを感じます。なぜか、というと、テレビを観ている視聴者は、「つっこみをいれることは、別に悪いことではない」と、短絡的に理解して、普段の日常会話においてもそれを使ってしまう可能性が高いからです。

危うさのポイントは、視聴者が短絡的に理解すること、です。

芸人のつっこみは、わざとぼけた相手に対し、つっこみをいれます。しかし、短絡的に理解した人達は、わざとぼけた相手に限らず、無差別につっこみをいれる可能性があります。ここに、つっこみという行為の危うさを感じる、ということです。

ちょっとミスしただけでつっこみをいれられる、ちょっと見当違いの発言しただけでつっこみをいれられる、ちょっと暗い表情を見せただけでつっこみをいれられる、ちょっと真面目な話をしただけでつっこみをいれられる、・・・。余裕のない、油断の出来ない、住みにくい世の中。

ここで、つっこみについて、私なりに定義しておきます。

「弱い立場の弱みにつけこんで、注意・指摘を傲慢な態度で行うこと」

ある行為に対して、過剰なつっこみがあったので、それに対して不快感だと指摘した場合に、「何言ってるんだよ。単に、つっこみをいれただけじゃないか。そんなことで文句言うと、場の雰囲気悪くするから止めろよ。」と逆に指摘され、これが正当化されてしまうと、つっこみへの反論はタブーであるという、一方通行的な強者の論理が成立してしまうことになります。

常につっこみをいれる立場にいる人間は、この論理でも構わないのですが、逆につっこまれる立場の人間にとっては、この論理が成立するということは、人間関係がかなり苦しいものとなり、死活問題にまで発展する可能性があるので、とても了承できるものではありません。

相手の立場に立たない、相手の立場を配慮しない、という人間性の劣化の一つとして、強者の論理に立ったつっこみという行為が、攻撃的な、殺伐とした社会を背景に露呈してきていることを、我々は真摯に認識する必要があります。

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◆ いじる、について ~ おもしろ至上主義への妄信 ~

  • 2007/06/28(木) 14:58:32

お笑いのつっこみに関連して、「いじる」という言葉に注目して論じてみたいと思います。
その前に、いじるの定義をしておきます。

「無理を言って困らせる。いじめる。もてあそぶ。」

いじるというのは、相手のちょっと変だと思われる部分をクローズアップした形で表現し、アレコレと言うことで、相手を困らせる、もてあそぶ、行為ですが、広義的に解釈すれば、いじるも、いじめも同じであり、いじめの範疇に入ると言ってよいかと思います。

芸人がタレントをいじる、という行為は、今ではテレビにおいて当たり前になっていて、逆にタレントの方もいじられるのを待っているようです。彼らは、プロですから、覚悟を持って臨んでいるのでいいのですが、視聴者側には当然覚悟がありませんので、日常においていじる行為を安易に使っていいのかどうか、について深く検証したことはないでしょう。これは、「つっこみ」のところでも述べましたが、短絡的に理解する、という危うさを持っていることになり、視聴者である我々素人は決して鵜呑みをしてはならない、ということです。

世間において、「つっこみ」も「いじる」も肯定されているようですが、なぜなのでしょうか?

それは、今、日本において、「おもしろければ許される、おもしろければなんでもあり」という、おもしろ至上主義が背景として蔓延しているからだと考えます。確かに、おもしろければ、おもしろいと感じた時点で、そのおもしろさから恩恵を享受するわけですから、積極的にそのおもしろさに対して批判できないのも分かります。

しかし、例え恩恵を享受していようと、間違っている場合には「間違っています」、と意見するのが、大人世代の最低限の責任であり、義務であると考えます。つまり恩恵を享受しているか否かが問題なのではなく、間違っているか否かが問題なのです。ここの部分を履き違えている今の風潮は、善悪ではなく、おもしろ至上主義を優先することであり、これは道理に反した行為と言わざるを得ません。

世間に良い影響を与えるおもしろさ、世間に悪い影響を与えるおもしろさ、その判断をしっかり行っている人間がどれだけこの日本にいるのでしょうか?ほとんどいないのが実態ではないでしょうか。

テレビに限らず、映画、ラジオ、雑誌、携帯電話、ゲームソフト、等に関して、世間に与える影響を厳正に検証した上で、子供達にも悪い影響を与えないように施策を講じ、世に提供することが、我々大人世代の責務であり、当たり前の諸行であると考えます。ところが、競争社会に没入している現代日本人においては、目先の利益を追うことで精一杯なところがあり、世間への影響を真摯に考えている人は、一握りと言えるのではないでしょうか。

道理に沿って考えれば、何が善で何が悪かは、判断できるわけで、「おもしろいから、まあ、いいんじゃないの」という血迷った考えは、肯定されるべきではない、と考えます。我々はまず、この混沌とした秩序のない社会の元凶が、多様性を背景にしたおもしろ至上主義であることを明確に認識し、この実体のない風潮を排他するよう努力していかなければなりません。

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◆ 被害者の視点 ~ 空気を読め ~

  • 2007/06/28(木) 14:59:59

攻撃的な態度が容認されている世の中ですが、この攻撃を受けた被害者の視点で論じてみたいと思います。

コンパの席で、A子さんは、浮かない表情で座っていた。前の日に、母親と大喧嘩をし、気まずい思いを引きずっていたからだ。それを見かねたB君が、「A子、せっかくのコンパの席で暗い雰囲気なのはまずいんじゃないの。みんな盛り上がっているのに、いかにもつまらなそうじゃ、場がしらけるよ。少しは空気を読めよな。そんなにつまらないなら、先に帰ってもいいよ。」との冷たいお言葉。A子さんは理由を言うタイミングを逃し、なくなくその場を離れました。

この例では、A子さんは一方的に攻撃的な態度に晒されたわけですが、その場を離れたということは、余程精神的に落ち込んでいた、あるいはもともと立場の弱い存在であったと考えてよいでしょう。仮に、その場を離れなかったとしても、攻撃的な態度に晒されれば、普通の人なら、精神的な苦痛を受け、塞ぎ込んでしまいます。このB君の言葉には、威圧はあっても、相手を思いやるという気持ちは、微塵も感じられないので、本人がどう思っても、攻撃的な態度だと言えます。そして、今の世の中、こういったシーンは、様々な場面で行われていて、A子さんのように悲しい思いを持つことは、珍しいことではないでしょう。

攻撃的な態度、というものは、先制攻撃の場合が多く、受けた側は先にそれをされると、相手に対して恐怖を感じてしまう場合もあります。また、反論することで、その場の雰囲気を害してしまい、その結果浮きたくないとも考えるようです。
今の世相の流れからすると、「おもしろい」や「場の雰囲気を優先」という考えが絶対的であるので、これに反する言動や行動は、容赦なく裁かれ、悪のレッテルを貼られるという風潮にあるので、どうしても戦々恐々とした生活になってしまいます。

攻撃的な態度を、受けやすい立場の人間にとっては、反論はできないので、泣き寝入り、という形で我慢しますが、言動というものは、言葉によっては心に傷をつけるものもあり、我慢しながら、なおかつ傷つくとなると、二重の苦しみに耐えることになります。
いずれにせよ、立場の弱い存在、あるいは、抵抗できない存在にとっては、この攻撃的な態度、というものは、筆舌に尽くしがたい、耐え難い行為であり、その行為自体にメスを入れ、徹底的に改善をしていく必要があるのです。

「空気を読め」というフレーズがあります。「周囲の了解なしに突出することは許されない」、という解釈でいいと思いますが、この言葉は使いようによっては、かなりの凶器性があると考えます。空気を読んで行動しなければ、「集団から排除するぞ!」、との脅しにも近い意味合いを持っているからです。使っている本人にしてみれば、協調性を重視して、その秩序を乱す人間を悪とし、注意しているだけだ、という感覚なので、罪悪感はほとんど感じていないと言ってよいでしょう。

しかし、立場が変わって、この言葉を受ける立場からすれば、攻撃的な態度で、「空気を読め!」と言われることが、とてつもない恐怖であることを、発言する立場の人間は認識する必要があります。

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◆ なぜ、攻撃的なのか?

  • 2007/06/28(木) 15:00:41

それでは、なぜ、攻撃的な態度が蔓延しているのでしょうか?その原因について見当がつくものを挙げてみます。

・イライラ感がある
・競争社会からのストレス
・人間関係の希薄化
・本能剥き出しの行為が悪いという認識の希薄化
・本能剥き出しの行為が恥ずかしいという認識の希薄化
・おもしろ至上主義による弊害
・日本語力の低下
・攻撃的な態度が容認されている

この中で、根本的な原因と言えるのは、「イライラ感がある」と考えます。③において、イライラ感について述べましたが、イライラ感があると、どうしても人は、外に対して攻撃的になってしまいます。この一連の流れを一つの文章にして示してみたいと思います。

「根拠のない妄想を持って、自分、相手、周囲、社会に対して期待をかけ、その自分がかけた期待に裏切られ、落胆することによりイライラしストレスが溜まるので、そのはけ口として、外に対して攻撃的になる」

簡単に表現すれば、「イライラ感を解消するために、周囲に八つ当たりをしている」と、いうことです。ここで、八つ当たりを定義しておきます。

「腹を立てて、関係のない人にまで当たり散らすこと」

正直、攻撃的な風潮(八つ当たりを肯定する風潮)は、傍迷惑、としかいいようがない風潮です。攻撃側の人間は、ストレス解消なので、ある意味構わないのですが、攻撃を受ける側の人間は、ストレスのエネルギーをまともに受けることになり、精神的に損傷しないほうが不思議なくらいなのです。
このストレスエネルギーを頻繁に受けていれば、当然、精神的破綻の恐れもあることから、その回避方法として、心に防御を設け(心を閉ざし)、相手の一挙手一投足に反応しない、という心構えを持つ、ことが考えられます。この回避方法の弊害として考えられるのは、無関心、無表情、無思考、無反応、等の感受性としての鈍化、劣化と言えます。今巷では、こういった感受性の鈍化・劣化を帯びた若者が溢れ返っているのが実態であり、この状態を打開するためにも、攻撃的な風潮は否定されなければなりません。

攻撃的な風潮の厄介なところは、今の日本人がその風潮に気づいていないこと、がまず挙げられます。仮に、その風潮に気づいている人であっても、攻撃的な態度自体が悪しき行為、恥ずかしい行為であるとの認識が薄く、結果として、攻撃的な風潮を横行させることになります。いづれにしても、日本人の大半が、この風潮に対して、甘く捉え、事なかれ主義を貫いていることが、この悪しき風潮が蔓延し続ける原因の一つと言えないでしょうか。

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◆ イライラ人間の特徴

  • 2007/06/28(木) 15:01:22

攻撃的な態度の根本原因は、イライラ感ですが、このイライラ感とは、他の表現ではどう言い表すことができるのでしょうか?

・不満足感
・不幸感
・不平等感
・劣等感
・自己嫌悪感
etc

不満足感とは、自分、周囲に対して色々と期待していたのにも関わらず、その期待が裏切られ、満足できないという感情のことです。
不幸感とは、自分の生い立ちから今までの人生、今の状態を見て、自分の期待する幸福感と比較して低いとし、幸福でないとする感情のことです。
不平等感とは、実際に平等の状態というものはあるに違いないと理想(期待)を抱き、その理想に裏切られ、平等でないと嘆いている感情のことです。
劣等感とは、他人を必要以上に理想化し、その理想化した他人と自分を比較することにより、自分が劣っていると判断している感情のことです。
自己嫌悪感とは、自分に対して必要以上に期待していたにも関わらず、その期待が裏切られ、自分自身が嫌になる感情のことです。

いずれも自分の妄想が原因で感じている感情であることが分かります。こういった根拠のない妄想を持って、自分、相手、周囲、社会に対して期待をかけ、その自分がかけた期待に裏切られることで、イライラする、ということは、前述した通りです。

次に、イライラしている人の状態(行動パターン)を列挙してみたいと思います。

・常にイライラして、不満足感を抱えている
・ストレスをどこかで吐き出そうと思っている
・ストレスを吐き出す標的を探している
・ストレスを吐き出しても、なおイライラ感は続く
・社会に対して敵意を感じている
・自己中心的に物事を考えてしまう
・損得勘定に左右されてしまう
・愚痴が心の中に溜まっている
・どうでもいいことに気が障る
・人のせいにしてしまう
・上辺だけで判断してしまう

これらは、かなりイライラが高じている人を念頭に表現しましたが、こういった人は、恐らく潜在的に多数いるのではないか、と想定できます。どの状態も、人生を歩む上で困難極まりないものですが、本人にしてみれば、なぜそうなったのか、という原因すら分からなく、後戻りをする術すら考えられない状態であろうと思います。

恐らくこういった人というのは、自分で自分の生き方が苦しかったり、不器用さを感じていたりするのですが、道理に反した生き方になっていること自体が理解できていないので、容易に生き方を変えることが難しいタイプと言えます。

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◆ 標的を探す飢えた人々

  • 2007/06/28(木) 15:02:04

イライラしている人の状態の中で、「ストレスを吐き出す標的を探している」を挙げました。この標的について論じてみたいと思います。

なぜ、標的を探しているのか、そしてなぜ標的を探してしまうのか、というと、前述しましたが、イライラすると当然、ストレスが溜まり、この溜まったストレスをなんとか放出したい、あるいは解消したいと考えるからです。仮に、この溜まったストレスを放置、つまり我慢して保持してしまうと、心に作用して、酷い時には、自律神経失調症となる可能性もあるので、注意が必要と言えます。

イライラが基で、ストレスを溜めてしまった人にとって、標的を探すということは、自分を生かすためには当たり前に近いことであり、ある意味、必要ごとと考えているのでしょう。しかし、このような自分本位の利己的な標的探しは、人として道理に反する行為であると共に、人として恥ずべき行為であることを、ここで断じておかないといけないでしょう。

ところで、標的になる人というのは、どういうタイプなのでしょうか?

それは、「抵抗できない存在」、「立場が弱い存在」であると考えます。そして、この要件に該当すれば、標的は誰でもいい、というのが、最近の風潮であり、いじめにおいては、顕著に現れています。

昔のいじめは、ある特定の人間が標的になることが多かったのですが、最近の傾向は、日替わりで標的が変わる場合があるらしく、まさにイライラの吐け口、ストレス解消の吐け口、として、無差別にいじめが行われるのが実態のようです。

今の社会においては、道理に反する不条理な出来事が多発し、子供にとっても生きているだけでイライラが募ってしまうのが現状であり、イライラ解消のために標的を探すことは、必然の成り行きと言えそうです。

イライラを解消する方法も、様々あると思います。思いつくところを挙げてみたいと思います。

A.脈絡もなく、攻撃的な態度で、ストレス解消をする
B.注意・指摘に乗じて、ストレス解消をする
C.悪口・暴言で、ストレス解消をする
D.愚痴を言うことで、ストレス解消をする

Aの脈絡もなく、ということは、これと言った理由もなく、単に周囲に当たり散らすことで、ストレスを解消してしまう、ということです。
Bは、普通に注意・指摘をすればいい場面で、自分のイライラ解消のために便乗して叱り飛ばすことでストレスを解消してしまう、ということです。
Cは、腹底にある汚い言葉を使うことで、相手にダメージを与え、少しの優越感を感じることで、ストレス解消をしてしまう、ということです。
Dの愚痴とは、煩悩の一つですが、腹底に溜まっている愚痴を、聞いてくれる誰かに浴びせ倒すことで、ストレス解消をしてしまう、ということです。

イライラを解消する方法を4つ挙げましたが、いずれも標的にされた側にとっては、まさに青天の霹靂と言えるものであり、とても受け容れがたい行為なのです。ところがイライラし、標的を探す飢えた人々にとっては、強者の論理の上に立った行為であって、恐らく罪悪感を感じることはなく、反省することも難しいことでしょう。

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◆ きれる、について

  • 2007/06/28(木) 15:02:52

攻撃的な態度がさらにエスカレートした状態に、「きれる」という状態があります。ここで、きれるについて私なりに定義しておきます。

「何かに反応することで突然逆上し、理性的な対応ができなくなる」

きれる、という現象は、きれる人間に問題があるのか、きれさせる周囲(人間等の環境)に問題があるのか、と論じたくなるところですが、道理からすれば、きれる人間にもともと原因があって、たまたま縁と結びつくことで、きれるという現象が結果として起きる、だけです。根本原因という観点で述べれば、きれる人間本人に原因があり、責任がある、ということです。

ここで、きれるについて、例えを一つ挙げます。

A君はテストの点数で落第点を取り、イライラしていた。そこにクラスメートのB君がやってきて、「お前、落第点取ったんだってなあ。恥ずかしい奴だなあ。」と言ったことで、A君は急に立ち上がり、「なんだとー!おまえぇー!」と、逆上。A君はきれて、暴れ出しました。

A君が落第点を取りイライラしていた、が原因。B君が悪口を言った、が縁(悪い縁)。この原因と縁が結びつくことで、結果として、きれる、が起きた、ということです。

攻撃的な態度の根本原因は、「イライラ感がある」と述べましたが、きれるという現象も、同様に、イライラが根本原因と言えます。要は、もともと根本原因としてイライラがあり、程度が低ければ攻撃的な態度で落ち着き、程度が高ければきれるまでエスカレートしてしまう、ということであり、双方共に、イライラを対処できれば、解決することを意味します。

ところが、このきれるという問題には、厄介な面があり、それは、家庭での環境要因に影響される、ということです。きれる子供が環境要因とは無関係に出来上がる、というのは考えづらく、少なくとも、きれやすい子供というものは、家庭での環境要因、つまり親の影響を受けている、と考えるのが適当だと言えます。その親の影響の中でも、道理に反している言動、つまり、理不尽な言動を子供に対して長期間浴びせることにより、子供の中に、イライラの源を育ててしまう恐れがあります。このように述べてしまうと、「それは親のせいにして、道理に反するのではないのか?」との意見もあろうかと思いますが、人は環境動物であり、特にこのきれるという問題は、一面的な見方だけでは解決できないと分析できることから、敢えて、環境要因にまで言及したということです。

昨今、とにかく世の中は、きれる人間で充満しています。ちょっとしたことできれる、どうでもいいことにきれる、何もしていないのにきれる、親切心で声をかけただけなのにきれる、・・・。きれてきれてきれまくる。こんな精神的に腐敗しきった状態で、疲弊しきった状態で、思考できない状態で、相手への気遣い、相手への配慮、相手への思いやり、など持てるはずもありません。よく相手への気遣い、配慮、思いやりが必要と強弁される方がおられますが、それは、彼らの精神状態を無視した理想論を唱えているに過ぎないわけで、しっかり実態を洞察して頂きたいと思います。

きれる子供、が注目を集めていますが、実際にきれているのは、子供だけではなく、むしろ大人の方がより多くきれているのではないでしょうか。そして、大人が子供のちょっとした言動や行動に対しても、いちいち目くじらを立てるようにきれているから、子供も同様にきれている、つまり大人から子供に伝染したと考えるべきなのでしょう。こう考えてくると、我々大人世代は、子供を問題視する前に、己の姿をしっかり振り返り、己の反省をまずは進めていく必要がありそうです。

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◆ 親子関係 ~ 言葉による攻撃 ~

  • 2007/06/28(木) 15:03:39

攻撃的な態度、というものは、親子間にも存在します。その攻撃的な態度は、言葉によるもの、暴力によるもの、に分けられると思います。言葉による攻撃は、しつけという名のもとに行われる場合が大半で、表面化しにくい性質を持っており、なかなか世間でも注目されにくい問題であります。それと違って、暴力による攻撃は、しつけと称して行われたりしますが、結果としてあざが出来たり、病院の手当が必要になったりと、表面化する性質を持っており、世間では児童虐待という名称で注目を浴びている問題であります。

まず、言葉による攻撃ですが、意外と親は、その効力についての認識が希薄なのではないかと思われます。たかが言葉、されど言葉、というのが、子供にとっての実状であり、信頼を置きたい親から繰り出される言葉の攻撃には、相当辟易し、嫌悪しているはずです。子供にとっての親は、絶対であり、その親からの厳しい言葉の攻撃は、避けられない拷問とも言えるでしょう。

A.「早く歩きなさい。ぐずぐずしていると置いて行くわよ。何度も言わせないで!」
B.「早く歩けよ!お前、いいかげんにしないと、ホント怒るぞ!分かっているのか!」

AもBも、共に攻撃的な態度として示しました。Aは割と程度の低いものですが、しかし語調や子供の心理状態が不安定であれば、相当なダメージを受けると思われます。Bは、正直、ビックリするような言葉遣いだと思いますが、最近の親の一部にはこういった中学生みたいな乱暴な口調で子供を注意しているようなのです。

なぜ、そういった乱暴な口調を使うようになったのか、見当がつく限りで挙げてみたいと思います。

・自分の親も同じ口調であった
・そういった口調で成長してきて、誰にも注意されなかった
・自分でそういった口調が良いと思っている
・子供が言うことを聴かないので、段々とそういう口調になった
・テレビの影響を受けて、そういう口調になった
・友人の影響で、そういう口調になった
・丁寧な口調は性に合わない
・丁寧な口調そのものを知らない

いずれの理由があるにせよ、乱暴な口調を使うことの正当性を有するものはありません。子供という未熟な存在に対して、圧倒的な力を誇る大人が、自分の都合一つで、乱暴な口調を使うことが許されてはならないのです。さらに、確信犯的に子供にダメージを負わそうとしているのならば、なおさら許されることではありません。

「他人には配慮するが、身内には厳しい」という、世間体至上主義の風潮が、こういった乱暴な口調の横行を放置しているのかもしれません。また、子供は親のアクセサリー、程度の重みにしか、親が子供を認識できないという驕り、傲慢さが、言葉による暴力を肯定しているのかもしれません。いずれにせよ、こういった言葉の暴力に晒された子供達は、相当なダメージを受け、意識・無意識を問わず、確実に恨みを抱くことになり、これが、将来の反転攻勢である家庭内暴力に繋がることを、親は、十分に認識しなければならないでしょう。

言葉は、言霊と言われるように、その言葉自体に秘められた力があり、安易に言葉を選ぶことで、相手に悪い影響を与えかねない、ことを十分に認識しないといけません。ここで、言霊について定義を見ておきます。

「古代日本で、言葉に宿っていると信じられていた不思議な力。発した言葉どおりの結果を現す力があるとされた」

「水からの伝言」という著書がありますが、これは水に言葉をかけると結晶の形がその言葉に影響されるとの主張のもと撮影された写真集であり、「ありがとう」などの良い言葉には美しい結晶を呈し、「ばかやろう」などの悪い言葉には汚い結晶を呈する、というものです。

人間は、よく約70%は水分である、と言われますが、これが真実ならば、人間に対して暴言・雑言等を与えることで、その人間内の水の結晶は、とんでもなく歪んだものになっていく、とも考えられます。また、これを真実と仮定するならば、暴言・雑言等により、精神的な衝撃、に加え、身体的な衝撃を受けていることになります。これは言い換えれば二面的な衝撃を同時に受けていることになり、受け止める側にとっては、相当なダメージになると考えられるでしょう。

子供にとって親は、絶大な力を持っている立場であり、その親の影響は、良い意味でも悪い意味でも多大であるとの認識が子を育てる親には、必要不可欠と言えます。親から子供へ言葉を渡す時には、受け手である子供の立場を考慮した上で、しっかり配慮し、受け取りやすい言葉を選択する、ことが大切であり、無闇な暴言等は、子供の成長に暗い影を落とすことを重々承知する必要があります。

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◆ 親子関係 ~ 暴力による攻撃 ~

  • 2007/06/28(木) 15:04:29

暴力による攻撃、これは、エスカレートすれば、児童虐待になり、その児童の生命さえ危ぶまれてしまう、危険行為です。児童虐待をしてしまう親の心理は、ここでは割愛させて頂きますが、その原因は、イライラ感が主ではないかと考えます。イライラ感が募り、子供の存在自体が面倒になり、善悪の判断ができないところで、虐待を繰り返しているのではないでしょうか。

こういった人は、もしかしたら、次のような質問をしてくるかもしれません。

「なぜ、虐待がいけないのか?」

虐待とは、「むごい扱いをすること、ひどくいじめること、残酷な待遇」であり、もし、この質問者に「あなたが一方的に虐待を受けたら、その行為を良いものだと言えますか?」と、問いかけたら恐らく、「それは困る。」等の言葉で濁し、その行為を肯定しないと思います。つまり、自分の行為(虐待)だったら良いが、他者の自分への行為(虐待)は良くないし、受け容れられない、ということです。

これは、何を言っているのか、といえば、自分に都合が良いものは正しく、自分に都合が悪いものは正しくない、という自己中心的で利己的な、主観性でしか物事を見ることができない、稚拙な考えを露呈していることを意味します。もっと、分かりやすく言えば、わがままで、どうしようもない考え、ということであり、この考えを持っている人間は幼い、ということです。

「なぜ、○○はいけないのか?」と質問してくる輩は、それが自分に降り懸かった場合を全く想定していないので、己に降り懸かるとなると、我に返り、即座に「ノー」と答えるわけです。自分本位でわがままな人間は、得てして、答えに窮する質問を世間に投げつけることで、自分の考えの正当性を主張したがりますが、所詮、根本を把握していない、上辺だけの人間であり、裸の王様とも言えます。

余談ですが、「なぜ、人を殺してはいけないのか?」という議論が、少年犯罪が頻発した時に行われましたが、人を殺してはいけないのは、自分に刃(やいば)が突きつけられた時に、同じセリフ、「なぜ、人を殺してはいけないのか?」とは吐けないからです。自分がやられて嫌なことは、相手に対してもしてはならない、だから、人を殺してはいけない、ということなのです。実に単純な話ですが、複雑怪奇な社会に身を置いていると、こういった問題すら解明できないくらいに、人は堕落してしまうものなのです。

話が虐待の是非に流れてしまったので、虐待を受ける側の子供の話について、ここで述べたいと思います。小学生くらいまでの子供にとっては、親は、とてつもなく大きい存在です。それは、親の庇護のもとに生活しているという意味と、体格として大きいという意味の二つの面のうち、後者の物理的に大きい、を意図しています。親が相対的に子供より大きいのは当たり前ですが、小学生くらいの子供にとっては、実際の2倍にも3倍にも見え、そして、声の大きさについても、実際の2倍にも3倍にも聞こえるのが、受け手の子供側の感覚なのです。

それを知らずに、親が子供に、暴力による攻撃をすれば、実際の数倍の暴力を受けたことに匹敵し、怖れをなして、心を閉ざしてしまうのもある意味、仕方がないと言えます。また、親は、自分が子供に対して権力を握っているという傲慢さがあるために、どんなに暴力を振るっても、最後には自分のところにしか帰る場所がないことも、知っているという卑怯さを有しています。しかし、子供にとっては、親が唯一の頼りであり、いくら暴力を受けても、親に認められたいという気持ちがあるがゆえに、自滅とも呼べる道を歩んでしまうのです。これだけ健気な子供の心情を汲み取れない親というものは、親失格の前に、人間失格と言ってもよいのではないでしょうか。


暴力による攻撃、つまり虐待は、絶対に許されません。それは、「自分が虐待されて嫌なら、相手に対しても虐待してはならない」、という道理があるからです。虐待、という行為が一体どういうことなのか、それをしている自分は人として道を外していないのか、をしっかり省みて、人として正していくところを正していかないと、いつでも極悪犯罪人になってしまう可能性があることを親達は肝に命じなければなりません。

親子間の攻撃的な態度を「言葉による攻撃」と「暴力による攻撃」と、2つの観点から論じてみました。いずれにせよ、子供にとっては、耐えられない事柄であり、それは子供自身が存在意義を問いただしてしまうくらい辛い事象なのです。

「僕は、本当に生きていていいのだろうか。僕は、悪い子で存在してはいけないのではないだろうか。」

このような迷いの言葉を発してしまう子供達は、今世の中に大勢いるのではないか、と危惧してしまいます。また、このような考えに苛まれていると、得てしていじめの標的にされる可能性が高いと言えます。自分の存在に自信がなく、常におどおどしてしまう様子は、周囲から見れば、からかいの対象に映ってしまうからです。親は、成人していない子供に対して、過度に攻撃的であってはなりません。それは、悪たらしい行為であり、後々子供に悪い影響を確実に与えます。迷いの言葉を発し、途方に暮れる子供達を作らないためには、親はこの事実を真摯に受け止め、心を改める努力をするしかありません。

それと同時に、精神的にまだ幼い子供に対しては、

「生まれてきてくれてありがとう。君は生きていっていいんだよ。」

との心からのメッセージを親は、時あるごとに伝えるべきでしょう。

また、子供の存在を認めてあげるというこの行為は、その子供に社会で生きていく上での、最初のパスポート(人生の通行証)を手渡すことになるので、ぜひ親は、パスポートを持った子供にしてあげ、社会に出ていく後押し、応援をして頂きたいと思います。親からパスポートを貰った子供達は、間違いなく前向きであり、内に対する不安が少なく、外に対しての一歩を自ら選び進めていくはずです。

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◆ 攻撃的な態度から柔和な態度へ

  • 2007/06/28(木) 15:05:17

「皆、外に対して攻撃的」、というテーマに対して論じてきました。ここで、整理とまとめをしておきたいと思います。

攻撃的な態度とは、「激しく、責め立てる・指摘する・注意する」、でした。この攻撃的な態度は、世間においては、大筋容認されている、と述べましたが、それは、「多様性」、「おもしろ至上主義(おもしろければ許される)」と「場の雰囲気優先主義」という偏った風潮が背景にあることから容認されていると考えられます。

「おもしろければ、許される」、「おもしろければなんでもあり」という、おもしろ至上主義というのは、大多数がおもしろいと評価する、あるいは、有力者がおもしろいと評価する、ことで、たとえ悪いことであっても、あたかも正しいかのごとく正当化されてしまう、思想あるいは考えである、と言えます。つまり、道理に反していようが、法律に抵触していなければ、有益なのだからいいのではないか、という考えです。この考えというものは、間違いなく子供世代から発生してきたものではなく、大人世代が作り上げた産物であり、この悪い産物が横行している限り、日本の腐敗ぶり、大人世代の腐敗ぶり、子供世代のいじめ問題、は絶対に改善されない、と考えます。

「空気を読め!」に代表される「場の雰囲気優先主義」は、周囲の了解なしに突出することは許されない、という拘束力を持つものであり、これは、「保守的」、と言わざるを得ないでしょう。抜け駆けやパイオニア的な行動は嫌われ、守りの姿勢で小さくまとまることを強要している、小心者の思想であり、「協調していこう」、という名のもとに、気勢を発してはいるが、内実は単に独りになることに恐怖しているだけと言えます。

この横並びの発想は、なんとも日本的で日本人らしい臆病な思想ですが、人というものは十人十色であり、空気を読めない人間もいれば、空気を読みながらもその馴れ合いの雰囲気を打破したいと考える人間もいるわけで、ある一定の思想に押さえ込むという考えは、「権威主義」、と言ってもいいかもしれません。

これは、「鶴の一声」で、全てが決まってしまう社会に象徴されます。権威主義をうまく使える人は、権力を掌握している人、あるいは万人が受けるだろうと思われる考えを披露できる人、ではないか、と考えます。後者については、その人が良い意味でも悪い意味でも、感受性に優れている、わけですが、そういった特質を悪い方に活かすようになると、とんでもない権力を持ち、時代を乱す寵児になる可能性があります。

ここ最近、「人に対して厳しいなあ」、という話を聞きますが、とにかく人間関係は希薄でギスギスしていて、それでいて、それを改善するよう指導する人間すらいない、という末期的な人間社会になりつつあります。

個人個人が攻撃的な態度に偏っていれば、人間関係を築くのは難しいわけで、まずは、「攻撃的な態度で私は、普段、人に接している」ということに気づき、反省するところから始めるべき、と考えます。反省する際には、本書で述べたように正しい反省の仕方を行い、その結果として、自分の日頃の態度に対しての恥ずかしさ、傲慢さを真摯に認め、感受性を取り戻して欲しいと思います。そして、感受性が正常に働いていく中、攻撃的な態度から柔和な態度に移行していくことが、まさに道理に沿った生活態度と言えるのです。

柔和な態度への移行には、相当な時間を要するものと考えます。なぜか、と言えば、攻撃的な態度の根本原因は、イライラ感であり、そのイライラ感を減らす方法が「真実を知り、しっかり学ぶこと」だからです。この真実という代物は、世間で流布されている常識の類とは異なり、非常に難解な性質があることから、短期間での柔和な態度への移行は、厳しい、と言えるのです。

今、世の中は、殺伐とした雰囲気のもと、攻撃的な風潮が容認されています。この攻撃的な風潮を容認してきたがために、信じられないような凶悪事件が頻繁に起こり、我々受け手の感性すら麻痺しつつあります。このまま行けば、この平和と謳われた日本に、平穏な風景が一切なくなるかもしれません。誰が、このような社会を作ってしまったのでしょうか。答えは、己に聞いて下さい。この社会を良きものにするのも、悪しきものにするのも、もはや、あなた次第なのだということを、是非分かって頂きたい。

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